2011年12月9日金曜日

ベトナム語(L2)音声習得の話 その1

日本でベトナム語の勉強を始めたころの話。

ベトナムを初めて訪れたのは、卒業旅行という名目でだった。ハノイからホーチミンまで2週間旅行して帰国した後、ベトナム語に興味を持って、ちょっと勉強してみようかなという気になった。私はもともと大学で言語学を専攻していて、外国語学習が好きだったし、第二外国語の他にラテン語+2言語が必修だったということもあり、学内で開講されているいろいろな外国語の入門を勉強したことはあった。でもどれ一つ初級レベルを越えなかった。それで、英語の他にもう一つ言語をみにつけてみたいという気持ちは確かにあった。

それで修士に入ったころ、ベトナム語を勉強できる教室を探し(大学ではもちろん開講されていなかった)、市内のカルチャーセンター週1回のクラスに通い始めた。ここでは市販のテキストを使い、文法を中心に教えていただいた。このあと結局、時々休んだりしながら3年近く通うことになる。

私は修士課程では音声学の分野で論文を書こうとしていた。ベトナム旅行をきっかけに、ベトナム人の学習者の日本語の発音の問題について興味を持った。学部の時に実験音声学と調音音声学の科目があったので、音声学の基本的な知識はあった。修士に入ってからは日本語学習者の音声についての科目もあり、ベトナム語の勉強を少し始めていたので、授業の課題としてベトナム人の学生の発音を母語の影響の点から調べたりしたこともあった。

それで、ベトナム語を勉強する上では、発音はできるだけ正確に身につけたいという意識があった。ベトナム語教室では、発音の説明はあまり詳しくなく、市販の教科書にあるような、分節音、主に子音と声調の説明にとどまっていた。私の場合、音声学の勉強をしていたので、1つ1つの分節音の発音のしかたは理解できた。

ベトナム語の発音として、一般的な教科書に説明されているのは、頭子音・母音・末子音・声調の4つの要素だ。この4要素の学習について、勉強を始めた当初の状況を書いていくと。

まず、ベトナム語は日本語にはない頭子音の対立がいろいろあって、例えば t と th、つまり有気音と無気音の対立や、g音、つまり軟口蓋摩擦音などが最初の難関なのだが、どれも他の言語にもあるものだったので、少なくとも調音方法はわかった。 ベトナム語では b や đ (英語のd)などが人によって入破音 implosive ぎみになるのだが、これはこのころはまだできなかったかもしれない。他にも、二重調音とか反り舌音とか、調音音声学の教科書で紹介されていたちょっと珍しい音がベトナム語にはあって、ふ~んこれがそれなのね~と思っていた。調音のほか、音の弁別も、聞きとりテストのような形式で、1音節レベルで聞いて比べて区別しろと言われれば、だいたいできたと思う。でももちろん、連続する発話の中では、tとthの区別などはできなかった。

一方、母音についていうと、調音方法は分かっていたが、当時は音色のイメージがほとんどつかめていなかった。
ベトナム語の母音は10(または11)あり、音声学の授業で勉強する母音四角形上に、ダニエル・ジョーンズの基本母音ばりに、きれいに規則的に並べることができる。つまり、母音の音色の3要素である「顎の開きの大きさ」と「舌の位置」と「唇の丸め」によってちゃんと分類することができる。だから調音方法を学ぶことは簡単だった。しかし、それを身につけるのはとっても難しかった。
日本語で「い」「え」の2通りしかない前舌母音が(顎の開きの狭い方から順に) i  ê  e  a の4通りある。「あ」に聞こえる音がが a(前寄り)  â(中舌) o(後舌)の3通り。「お」に聞こえる音が o (後舌)  ô (円唇)  ơ (非円唇)の3通り。
隣接する音の違いは、かなり長い間、正直わからなかった。中では、円唇と非円唇の違い( o - ô、u - ư )は比較的わかりやすかったものの、ê - e、a - â の違いなどはほとんど全くわからなかった。発音も、注意すればなんとか形を作ることはできたと思うが、ベトナム語の母音の音のイメージ(記憶?)が頭にないまま、口の形だけ作っていたので、ベトナム語らしい発音にはなっていなかったと思う。
ちなみに、 ê - e は今でも間違える。a - â は、母音の音色のほかに持続時間も違い、音節構造によって出現に制約もあることが後で分かったので、今はあまり間違えなくなった。一方、このころは、ニ重母音や、介母音・わたり音のことなどは、あまりよくわかっていなかった。

(その1・つづく)

2011年12月6日火曜日

ベトナム語の音声習得の話(前置き)

私は研究上、「自分の母語にない音韻要素の習得」に関心がある。平たく言うと、例えば、日本人が中国語やベトナム語にあるけど日本語にはない「声調」を勉強するとか、または外国人が日本語の「長い音と短い音の区別」を勉強するとか、そういう場合のことだ。

例えば日本人が、英語のRとLの区別がなかなかできないとかよく言われるが、この場合は日本語に英語のRやLと同じ子音がないというだけで、子音というものそのものは日本語にも(どの言語にも)あるし、よく似た音は日本語にもある。つまり、単に同じカテゴリーに属する要素のバリエーションが異なるというだけである。だから、「ら行みたいな音だけど舌の形がちょっと違ってて・・」というように、母語の知識をある程度利用できる。

これに対して、日本人が声調を勉強するような場合、日本語には声調に当たるカテゴリーがない、か、またはないに等しい。声調というのは、だいたい、リズム単位1つ(中国語のリズム単位は音節)における声の高さの変動の軌跡のパターンによって語の意味を弁別するというシステムといえる。一方日本語では、1つのリズム単位(日本語のリズム単位は拍)の中での高さの変動によって意味を区別するということが基本的にない。だから、中国語の声調を身につけようとすると、母語の知識を活用することができなくて、全くゼロからはじめなければならない。日本人にとって、「あ」という音が、だんだん上がってっても、下がってても、それで語の意味が変わることはないので、その違いを意味と結びつけることができない。違う言葉に聞こえない。つまり、ゼロというよりはむしろ、マイナスからはじめなければならない。

こういうののことを、母語にない音韻要素の習得、と、ここでは仮に言っておくことにする(あまり正確ではないけど一応)。一般的に、こういうものの習得は大変だろう。大人には不利だ、できない、ともよく言われる。
それで、こういうものの習得は、一般的に、果たして一体、できるものなのか、できないのか。なんで難しいのか。できるとしたらどういう条件においてか、大人でもできるのか、その習得はどういう過程をたどるのか。そこに関心がある。
こういうことに興味を持つようになったのは、たぶん自分がベトナム語を勉強したときに習得の過程を経験して、それがなかなか不思議なものだったからだろうと思う。でもこれまでその過程についてあまり振り返ったことがなかったので、参考のために、一度覚えている限りここに書いてみようと思う。

というのは前置きでした。これからちょっとずつ書いてみます。

2011年10月1日土曜日

タクシー運転手のおじさんの話

今朝ホーチミン市から戻りました。
昨日乗ったタクシーのおじさんの話が面白かった。

今回の私の宿はLý Tự Trọng通りにあった。特に目立つことはないミニホテルだ。ベンタイン市場から近い便利な場所だけど、ツーリスティック過ぎず静かで、普通の町の雰囲気があって気に入っている。このへんは表通りには庶民的なごはん屋があまりないのだが、このホテルの脇の路地には朝から晩まで屋台が出るのもよかった。毎朝、宿の普通のコンチネンタルな朝食をパスして、この屋台で麺とかなんとか食べ、雨が降ったり夜遅くなるとお持ち帰りしたりして、とても便利だった。
この宿のもう一ついいところは、いつもタクシーが前に止まっていて、出かけようとするとセキュリティのおじさんがすぐ車を呼んでくれるところだ。ホーチミンでは、メーターを使わなかったりふっかけてきたりするタクシーもある中で、このホテルの前には安全と言われている会社のタクシーがいつも泊まっていて、お釣りをごまかされたりすることもなかった。
最終日の空港に向かう直前に少し時間ができたので、スーパーに行こうとしてタクシーに乗ったら、運転手のおじさんが心配したのか、スーパーの前で「今日もうこれから帰るのか。あと1時間しかないじゃないか、この角で待ってるから買い物済んだら乗れ」と言う。あとでふっかけられたりして?とも思いつつ、スーパーを出ると確かにおじさんがさっきの場所で待っている。まあいいかと思い、他にも数軒回ってもらってホテルに帰り、空港まで乗せて行ってもらう途中で少し話をした。

以下、おじさんとの会話。(べらんめえ調の早口の南部弁を想像してください)。

K(わたし):あのホテル、なかなか良いホテルだよね。オーナーはどんな人なの。
L(おじさん):おう、いいホテルだよな。オーナーはベトナム人で、女の人でな。でもだんなが外務省の人で、だから手続きとかなんとか便利なんだ。他にもホテル持ってるんだよ。そっちのほうは5つ星だけど、こっちはそんなじゃないけどな。でもちょっと高いだろ。
K:ま、すごく安くはないけど。でもサービスがいいし、いいと思うよ。
L:あの路地の中に他にもホテルあるんだよ。そっちは1泊たった20ドルで、ちゃんとエレベーターだってあって、なかなかいいぜ。
K:ふーん、いいね・・。おじさん、私、北で勉強したから、南部弁あんまりよくわかんないんだよね。おじさんはどこの出身なの。
L:おう、おれはここの生まれだよ。すぐここだ。うちはあの路地の中だよ。
K:えーそうなの?あそこに住んでるんだ。(だからあそこにタクシーがたまってるんだ・・)
あの路地、なかなか便利だよね。屋台もあって。
L:そーだな。フーティウの屋台があるだろ。食べたか。
K:毎朝食べてたよ。あそこ、けっこうおいしいなーって思ってた。
L:おー、そーだろ。あの屋台の奥さんは、もう10何年あそこでやってんだよ。
K:へえー、そうなんだー。なるほどね。他にもいろいろあるよね。
L:そーだな。焼きそば、サンドイッチ、果物、チキンライス・・・なんでもあるよ。昼はごはん屋も出て、朝昼晩とあそこで食べられるよ。
K:あの屋台の人達もみんなあの路地に住んでるの?
L:そーだよ。みんな家族みたいなもんだ。
K:へえ~。
L:おれの家族は中国の潮州から来たんだ。昔、あのへんにはいっぱい中国人が住んでてなあ、今でも中国出身の人が多いんだよ。
K:へー、知らなかった。おじさんの家族はいつ中国から来たの。
L:ずーっと昔だよ。おれのおばあさんの時からだ。今80歳だよ。だから母親もおれもホーチミンで生まれたんだ。おれは3代目ってことだな。
K:そーなんだ。私も韓国人の三代目だよ。韓国語しゃべれないけどね。おじさんは中国語しゃべれるの?
L:おーしゃべれるよ。潮州弁だけどな。ホーチミンには、潮州とか、広州とか、中国の南のほうから来た人が多いんだよ。知ってっか。がっはっはー。

確かにその宿の周りの人たちはみんな馴染みのようで、よそ者の悪い人が入ってくるような感じがなく、居心地のいい雰囲気だったのは、そういうわけだったのかと思った。ホーチミン市は(ベトナムの町はどこでもそうだけれど)占領・戦争・社会主義化(または北による再占領?)・そして改めて市場経済の隆盛、と、激動の歴史を重ねてきたはずだけれど、そんな中で、家族や地域社会の歴史もこの場所に淡々と刻まれていっているんだなーと思わせられる話だった。
最初はちょっと疑ってしまったけれど、結局のところこの運転手おじさんはとても親切で気がよかった。あのへんに住んでるなら、今度その宿に泊まればまた会うことになりそうだ。こうやって親切な顔見知りができると、まだあまり詳しくないホーチミン市にもだんだん気楽に行けるようになりそうで、楽しい。

2011年9月25日日曜日

ホーチミン市日記

ホーチミン市出張、1週間過ぎました。街をゆっくり歩いたりする余裕がなかなかないですが、近況。

・南部方言には苦戦。発音を少しでもやってみようと思ってたけど、こちらではいろんなところの出身の人がいて、それぞれ発音がぜんぜん違う。ニャチャンなど中南部の人が多いけど、反り舌化が激しくて、最もわからない。深南部方面は、何でもヤ行音化?する感じ?高さも全体的に高く、前よりで、とってもやわらかーい。誰をモデルにしていいのかわからない。中途半端に真似しようとすると聞き間違えられてしまうし、北部方言で発音すれば間違えられることはないので、とりあえず断念。聞いて理解することを優先したほうがよさそう。しかしこれは時間がかかりそうです。南部方言を女の子が話すと可愛いくて、できるようになりたいんだけどなー。

・初めてバスに乗ってみた。楽しい。路線もいっぱいあって4000ドンで安い。降りるバス停の名前も放送されてわかりやすい。今日乗ったバスはいわゆるワンマンで、自動でレシートが出てくる機械が備え付けられてた(ハノイのバスは車掌がお金を集める式)。一度、軽トラの荷台が客席になってるやつ(あれ、ベトナム語でなんて言うんでしょう?)に乗ってみたい。

・バスに乗ってチョロンに行ってホーロー製品を探したんだけど、見つからなかった。ベンタイン市場のおばさんに、「チョロンに行けばある」と言われたんだけど、探しきれず。今月号のスケッチの特集で、ハイフォンに工場があると紹介されてたんだけど、南部にはもうあまりないのかな。ところがたまたま今日会った人がハイフォン出身で、お母さんが画家で、昔このハイフォンのホーロー工場で製品に絵を描いていたんだって!すごい偶然。いつかハイフォンに行ってこのお母さんに会って、ホーロー製品工場を案内してもらいたい。ホーローはとりあえず、次にハノイに行ったときに買うことにする。

・ライブハウスに2軒行ってみた。1つはおなじみのYOKOで、ここはいつ行ってもいい店。内装がかなり変わってて、客席が広くなってた。スタンダードをフュージョン風にアレンジして演奏するステキなバンドがやってました。若い子たちだった。ピアニストがステキだった(けどこの人の吸うタバコの煙がきつくて咳が止まらなくなった)。2軒目はCafe Betという店で、奥まったところにあるアングラな感じのところだ。板張りで靴を脱いで入るのが芝居小屋っぽい。日替わりでお芝居や音楽をやってるらしい。音楽はアコースティックなもの限定のようだ。私が見に行った日は、日本で言うと「昭和30年代歌謡曲」という感じの曲をピアノ伴奏で歌う男の子が順繰りに出てくるという日だった。ものすごい古い感じで「歌声喫茶」かという感じ。若い子たちが360度回転してこういうものを聞いて楽しむようになってるというのは面白い。もう1・2軒行ってみたい。こういう店は3区のNguyen Dinh Chieu近辺に多いみたいだ。ただ、夜、一人でこういうところをどのくらいうろうろしていいものか、ちょっとつかめない。

・フィルム写真がぜんぜん撮れてない。実はカメラが故障していて、シャッター押した後ミラーが戻らなくなってしまった。でも、レンズをねじって外しかけるとミラーが戻るので、撮れないこともない。なんだけどどうも写真を撮りに行く気分になれない。まあ、仕事のこと考えてるからでしょう。実は今回カラーフィルムを持ってきている。ドンコイ通りで古いカメラを売ってるおじさんがいて、いろいろ見せてもらった。PEN-Fとか2眼もあった。2眼はローライ、リコー、ヤシカがあって、ヤシカが一番安くて550万ドンだといわれた。見せてもらったけど意外ときれいで撮れそうだった。120ミリのフィルムも売ってて1本3ドルぐらいで、現像もできる店いっぱいあるって。ぐらっときたなー。

・意外にも北部人によく会う。カウンターパートの大学の学長(女性)も北部人。ホーチミン人の友達曰く、北部のほうが言葉の表現が豊かで、変わった言い方をしたり間接的な言い方をしたりよくする。頭良さそうではあるけど、気取った感じがする。とのこと。たしかにそういう気がする。私はハノイ人の言葉遊びは嫌いじゃないけど、ちょっと内輪受け的で、南部人みたいに気さくではないよね。でも南部在住の北部出身者たちが意外に南部をほめる。気候がいいし、開放的だし、変なしがらみもないし、とのこと。そうだよねーとも思う。南部には北部人がいっぱいいるけど、北部にはそんなにいない。北部にももっと南部人が進出して、もっと混ざり合えばいいのに。と思う。私にとって南部で最もいいと思うことは、清潔。しかし北部料理の店の看板とか見ると、なんだかなつかしくて入りたくなっちゃって、われながらアホかと思う。

ひょっとすると仕事の都合で予定を数日延長するかもしれない。こっちはまだ雨季が終わらない。雨が降るとちょっと肌寒かったりする。日本に帰ったらもう10月、寒そーだな。ハノイももう秋らしいよね。いい気候の時期になってきたよねー。

2011年9月22日木曜日

2011年9月18日日曜日

ホーチミン写真

A birthday party

HCMの食べもの写真

カフェでものっすごいスコールに降られた。幸いWIFIがあったので、HCMの食べ物写真をアップします。

下の記事にでてきたBột chiên。四角いのが、餅っぽいものです。
初めて食べた。味は薄め。右下に見えるにんにく油をかけます。
ちなみに、一見ガス台に見えるけど、ペンキ缶みたいなのに炭を入れて鉄板をのせただけ。

この料理が好きすぎる。Nêm lùiといって、甘辛い味のついたひき肉のつくねみたいなのを、
香草と一緒にライスペーパーに包んで、ピーナッツのソースをつけて食べる。
薬味としてスターフルーツ、生バナナのスライスも入る。
これに似た料理は全国にあって、これは中部・中南部のスタイルだと思います。
ニャチャンでおいしいの食べたよなー。

Cơm hến (しじみ汁かけご飯)。しじみなどの具ののったごはんに、しじみの出汁のスープをかけて
食べる。中部料理。具と薬味がすごく複雑。この店のは粉唐辛子が入ってかなり辛かった。
フエ料理。"Nam Giao"にて。

Hủ Tiếu(ビーフンの類、南部料理)屋のテーブルセッティング。
北部と違います。紙がない(ここだけ?)。

やっと雨やんだ。でもこの調子では街は大渋滞だろうな!

ホーチミン日記 20110917

仕事でホーチミン市に来ています。今回は2週間弱の滞在で、HCMにこんなに長く滞在するのは初めて。いろいろ新しいことが多いので日記を書いてみます。
まず気づいたことから。

○言葉がわからない
わからない・・・。近所の屋台のおばちゃんが言ってることが半分ぐらいわからない(涙)。
仕事では北部人も多いし、私の言ってることはわかってもらえるので、なんとかきりぬけられないこともないが。人によってずいぶん違って、かなり北部方言に近い人とそうでない人の差が激しい。庶民的な人ほどわからない。南部の地方から出てきる人たちの発音がわからないのか?
今分かる範囲ではこんな感じ。 
1)1音節レベルで声調(重い声調・尋ねる声調と、上がる声調・折れる声調がだいたい同じにな
って4声調?違う?)。
2) 1)に伴って2音節の声調の組み合わせのcoutourが北部とぜんぜん違う。
例えば"Khổ quá"だと、北部ではkhổの尋ねる声調で一度最低音まで下がってからquáで上昇
    するののだが、こっちでは「上がる+上がる」となる。
3)/v/ /z/は/y/化するが人によって全部する人と一部しかしない人がいるみたい。
つづりRは北部ではザ行音だがこちらでは/r/か、ふるえ音。これもまだつかみきれない。
"tr"はそり舌音。
4)二重母音の音色が違う。"-iê-"は北部でははっきり「イエ」と読むがこっちではe音がとても軽
くて、iの長母音のように聞こえる。"-ươ-"なども同様。これが慣れない。
5)単母音の音色もかなり違う。"a"はより前舌。"ê""i"は激しく中舌化。
6)末子音の区別は、本に書いてある通り、かなり弱くて違いがわからない
全体として、北部方言で意味の弁別に使っているキューが軒並み使えなくてわからない。これに輪をかけて、語彙も、語彙の選択も違う。語彙としては北部でも使う語彙を使っていても、あることを北部とはぜんぜん違う言い方をすることがある。うう・・・。
今回の滞在中の目標としては、2音節の声調の組み合わせのCoutourぐらいはちょっとつかみたい。あと単母音・二重母音の音色もちょっとまねしたい。でも北部では意味を区別するためにはっきり区別して発音するよう心がけていたものを、区別が曖昧になる方向に修正するのはけっこう抵抗を感じる。自分が話せなくてもいいか。せめて聞いてもうちょっとわかりたいものだ。

○北部人が多い
ほんとうに思ったより多い。観光や仕事で短期滞在している人も多いみたいだし、戦中戦後の移住、最近の転勤などで移動してきて、すでに長く住んでいる人も多い。街を歩いていても普通に北部弁が聞こえてくる。今日会った北部出身の知人の話によると、身の回りの50%は北部人じゃないかという(それは多すぎ?)大学の中にも多い。カウンターパートの大学の学長は北部人。路地の中とか地元っぽいところではあまり出会わないけど。政府系とか、ホワイトカラーの仕事をしてる人が多いってことだろうか。北部料理のレストランもたくさんある。

○社会の構造がかなり違う
大雑把な言い方だけど。例えば、ハノイでは、サービス業で働いている人に年配の人はほぼ存在しなくて、ほぼ20代なのだが、こっちでは、ホテルマンやデパートの職員などで40、50代のベテランっぽい人が普通にいる。これは大きな違いだ。たぶん、こっちではサービス業の業種が30年以上前から存在し、ずっと働き続けている人がいるってことじゃないかと思うんだけど、違うかなあ。北部では飲食等以外にサービス業という業種が現れたのはまだ最近だ。

○屋台がいっぱいあって便利
軽食の屋台が多い。ハノイでは田舎から天秤棒を担いだ行商式の奥さんたちが通ってきて広げる露店が多いが、南部のはほんとに転がして運べる屋台の形をした屋台がある。流している屋台もあるが、朝昼晩と同じ場所にいる屋台も多くて、時間によって違う物を売ってたりする。ハノイの場合、行商の奥さんたちは決まった時間しかいなかったり移動して行ったりするので、なかなかつかまらない。
ちょっとした路地には屋台があってすぐに何か食べられる。便利だ。バンコクに似ている。ふつうに美味しい。昨日、到着してすぐ大学に打合せに行って、お腹がすいたので大学の前にいた屋台でタマゴサンドBánh mì trứng(フランスパンに焼きたて卵と野菜やパテなどをはさむ)を作ってもらって食べたんだけど、全く当たり前の味なんだけど改めておいしかった。ベトナムのタマゴサンド大好きなのだ。
昨日の夜、スコールが降って食事に出られなくて、遅くなってからお腹がすいて、宿の脇の路地に入ってみたらうまいこと屋台がいて、Bún thịt nướng(生ビーフンと焼肉の和え麺)と刻んだ果物のシロップがけをお持ち帰りできた。図らずもデザート付きだ。ふつうにおいしい。この路地には朝から晩まで4軒ぐらい屋台が並んでいて、麺もの、炒め物、果物、とうまく分業している。お昼はご飯におかずも出している。すべてお持ち帰り対応だ(これもバンコクに似ている。ハノイではこうでもない)。Bún thịt nướngとか、Bột chiên(これなんだろ?お米の粉を練ってサイコロ型に切った餅っぽいものを鉄板で焼いて卵とじにしたやつ)とか、北にはないものもある。

○街の匂いが違う
料理も甘い味付けが多いこともあってか、ホーチミン市は全体的になんとなく甘い香りがする、ような気がする。ドリアン、ジャスミン、バニラ、これはむしろバンコクに似ているなー。うまく説明できないんだけど・・・。

2011年8月15日月曜日

同窓会

先日、高校の同窓会に行ってみた。
私の出身校の同窓生の連帯はわりと強く、社会人になってから出会った人と同窓生だとわかると、もともと知らない人でも、高校の共通の話題で盛り上がって意気投合することもある。
同窓会活動も活発にしていて、それぞれ行われている同期の会とは別に、全学年の同窓会もやっている。母校は来年が創立50周年なんだそうだ。1期生も来ていたし、卒業したての学生も運営委員に加わっているので、だいたい46年分の同窓生が集まったということになる。
初めて行ってみたところ、同期にはほとんど出会えなかったんだけれども、ちょっと仕事で縁のありそうな人と名刺交換もできたし、会ったことのない人でも楽しめるようにゲームなどが企画されていて、なかなか楽しい会だった。
グループに分かれて、母校で昔から脈々と使われているジャーゴンを言い合うビンゴなんかしたりして、しょーもない用語や概念が相変わらずいっぱいあり、伝承され、共有されているいることにびっくりしたりしているうちに、高校生の時の記憶がよみがえってきた。
最後に校歌を歌うということになっていた。私は校歌を完全に忘れていた。でも歌詞を見ながらみんなが歌うのを聞くと、いつもピアノを弾きながら指揮をしていた音楽の先生、私も所属していたブラスバンド部の顧問の先生の顔がありありと浮かびあがってきて、笑ってしまった。
校訓は「自主自立」、校則のたぐいはほとんどなく、生徒会・議会・グループ活動などによる学生の自治が常に尊重されている風変わりな学校だったのだが、今でもその雰囲気は維持されているらしい。何かあれば討論会したり、試験前には学生が自主ゼミとかやったりして、面白い環境だったと思う。自分で考えて計画して、いいと思ったら自由に活動することをよしとする考え方を育てられて、今の自分の基礎になっていると改めて思った。同窓生たちに会うと、そんな同じ基盤をどこか共有しているようにも感じる。
本当にお世話になって大好きだった先生方がたくさんいらした。もともと教員になりたいなんて一切思っていなかったのに、高校のときにいろんな先生に大事にしていただいたからこそ、今、教員の仕事をしているのかなーとも思う。今思えば、先生方はああしろこうしろとは言わないのに、いつも子どもたちをとてもよく見ていて、肝心なときには温かく、助けてくれた。大好きだったのは、40代、50代の、経験豊かな先生方だった。今、当時の先生方に、改めて教えていただきに行きたいような気持ちだ。

今、教育機関の立ち上げの仕事をしているので、そういう学校の習慣とか伝統というのはどういうふうに、誰の力によって、どういう経緯を経て築き上げられるものなのか、とても知りたく思った。簡単なことじゃなく、一人の力でもなく、たくさんの人が長きにわたって気持ちを注ぎ込んだ結果であるはずだし、誰かの気持ちだけではなく幸運にも助けられたはずだ。その価値は、測りきれないほど貴重なものだとつくづく感じる。

元気がわいてくるような、なかなかよかった日でした。次は同期にも会いたいな。

母校のサイト(今や、こんなものもあるのね)

2011年8月1日月曜日

花火


豊田市の「豊田おいでん祭り花火大会」に行ってみた。矢作川河畔で行われるものだ。
花火大会は久しぶり。思ったより込むこともなく、うまく穴場を見つけて、のんびり楽しめた。
この地域では一番規模の大きい花火大会だと聞いたんだけど、本数も演出も迫力も・・・予想以上に素晴らしかった。
日本の花火って、誰でも楽しめるエンターテイメントとして完成されているうえ、毎年毎年明らかに進化していて、本当にすごい。
こんなすばらしい伝統的な娯楽が途切れず続いている日本って、やっぱりいいなって思った。
そしてこんなすばらしい花火が堪能できるのは、平和で安全だからこそだよね。
その価値をかみしめなきゃいけないね。

やっぱり夏は花火を見なくちゃ。そして次は海だな!

2011年7月31日日曜日

近況

しばし書いてなかったので、準備体操のように箇条書き的近況。

・ベトナム出張に2回行った。ホーチミン市は久しぶりに数日滞在して、すごくよかった。初めてチョロンに滞在した。チョロン、面白かった。今年はホーチミン市にもあと何回か行くことになりそう。今年は昨年以上に、ベトナムとの交流支援のお仕事が多い。
・ベトナム語クラス前期終了。16名で始まった入門クラス、幸い、13名の学生が試験を受けて、ちゃんとクリアーした。みんな楽しそうに勉強してくれた。後期も来るつもりの学生もいるみたいでうれしい。今年作った初級クラスの二人はすごくやる気でよく勉強した。これからどういうふうに続けていってもらおうかな?
・今期は、ベトナム語の他に大学院留学生の日本語のクラスもちょっとだけ担当した。実践的なアカデミック日本語の支援の内容でなかなか難しくて、苦労しながらやった。後期は留学生の支援にもう一歩深く関わることになるかもしれない。
・最近面白かった本:橋爪大三郎×大澤真幸「ふしぎなキリスト教」今仕事でイスラムの学生と接することが多くて、宗教の基本的な考え方を知りたいと思ってまずキリスト教のやさしそうなやつから。
・Ben Foldsとオリジナル・ラブのライブに行って、どっちもとてもよかった。髭のライブには行けなかったー。
・写真教室の展覧会がもうすぐで、プリント準備中。六切サイズで5~6枚選ぶつもり。プリントはかなり慣れて、露光時間やフィルタの計算も一人でだいたいできるようになってきた。撮影の方は、うーんまだまだ。構図の勉強が必要みたい。
・Facebook、Flickr、Twitter、のSNSの遊びは楽しみつつ、ちょうどいい加減にとどめるのは難しいなーと思っている。オフラインの時間をもっと長くしたい。
・髪型変えた。久々に前髪切った。ベトナムの女子学生の間で流行っているぱっつん前髪に影響された、という説もある。なかなかお気に入り。その他に最近のお気に入りは、なぜか、赤、ショートパンツ、ミニスカート、ワンピース?
・8月中はお休みがとれなそうなので、9月以降に長期休みをとるべく計画中。

2011年7月30日土曜日

再開(予告)

すっかり中断してたけど、また書きます。
でも今は予告のみだったりして、ごめん。
少なくとも、元気です☆


2011年5月22日日曜日

タシケント日記

タシケント記録。
・とてもお天気が良い。こちらは内陸気候で、夏は最高50度ぐらい、冬はマイナス10度ぐらいになるらしいが、湿気はそれほどないのでわりと過ごしやすいようだ。5月はベストシーズンで、お昼は30度ぐらい、夜は20度ぐらい?、そして毎日青空でとてもさわやか。50度って想像できないけど一度体験してみたいものだ。
・タシケント市内の治安は良い。夜は街灯があまりなくて暗かったりもするが、女性が晩ごはん食べた後に歩いて帰ったり、タクシーに一人で乗っても概ね大丈夫なようだ。ひったくりなどの事件もそれほどないらしい。国の管理が厳しく、街のそこら中に警官がいて厳しく監視しているためらしい。
・日常生活はわりと便利。市内には地下鉄があり(ソ連時代に作られたもので中央アジア唯一)バスも走っている。交渉は必要なものの、白タク営業をしている車がどこにでもいる。夜遅くまで開いているスーパーがたくさんある。
・物価は思ったより高い。国内産業が発達しておらず、野菜・肉・果物以外のほとんどのものが輸入品のようだ。輸入元はロシア方面・中国・中東方面などいろいろ。例えば紅茶のティーバッグは一箱3000~5000スム(150~250円)ぐらい、牛乳は1パック7000スム(350円)ぐらいするものもあった。外食は、庶民的な食堂で一食3000スム(150円)ぐらい、きれいなレストランでは2万スム(1000円)ぐらいするようだ。
・独裁により、行政をはじめとするいろいろなことがかなりおかしい。すべてにおいて、厳しい規制と現実が合致していない。例えば通貨スムは公定レートと闇レートの乖離が激しく、公定は1ドル1600スム、闇は2200スムぐらいで、公定レートで両替する人はいないようだ。街はこのところ区画整理が無計画に勧められていて、道路が突然封鎖されたり新たに作られたり、みんなが使っているスーパーや商店がつぶされて公園にされたり、大統領の親族の経営するスーパーに置き換えられたり、といったことが続いているらしい。大学では政府や学長の意向でスケジュールがでたらめに変更され、今年は直前の決定により期末試験が例年より2週間近く早く開始されることになった(私の仕事もそのあおりを食っている)。理由は説明されないのだが、9月にある国の独立20周年記念行事を円滑に行うために学生を田舎に帰らせようと、スケジュールを早める目的ではないかと言われている。国がこのような様子なので、ウズベク人の行動パターンもそれに沿わざるを得ないからなのか、人の行動が何かと場当たり的だ。
・多民族。ウズベク人のほか、ロシア系、タジク系、朝鮮系などいろいろな民族が入り乱れていて、日本人が街を歩いていても違和感はない。言葉はソ連時代からのロシア語使用に代わってウズベク語が公用語となっているが、ロシア語はまだよく使われている。ウズベク語は以前はキリル表記だったのがローマ字に改められたものの、まだキリル表記が通用している。英語が分かる人は多くない。母語以外の言語を生活の中で使うことはあたりまえになっていて、例えば母語がウズベク語、学校がロシア語、外国語として英語とドイツ語とさらにもう一つ・・・といったように3~4言語を学ぶことも全く珍しくない。そういう経緯で日本語を学ぶ人もそれなりにいる。ウズベク語はトルコ系の言語で日本語と文法が近く、日本語の習得は非常に速い。
・全体として人はよく親日的で、日本人には楽。写真も撮りやすい。カメラを向けても無反応かまたは積極的にポーズを取ってくれる。風景は色鮮やかだし非常にエキゾチックで、撮りたい景色がいっぱいです。

ところが昨日、NikonFGにつめていたフィルムがきちんと巻き取られていなかったことが判明。たぶん一本36枚分何も写っていない。ああ・・・・。デジタルでも少し撮っていたのでよかったけど。幸いまだ数日あるので今日から撮りまくります。

市場の仲良しおばちゃん二人組

2011年5月18日水曜日

タシケント日記

珍しく朝もちゃんと起きられて、割と余裕を持って移動できて無事に飛行機に乗れた。
名古屋からの便の機内食はかなり残念な感じだったけど、仁川ではいつも、そんなにお腹が減っていなくてもつい韓国料理を口に入れたくなる、ということで食べたユッケジャンが辛くておいしかった。
ソウルからタシケントまでは7時間以上。けっこう遠い。
ソウルからの便で隣りに座った韓国人のビジネスマンおじさん(自動車関係)の話が面白くて、なかなか楽しいフライトだった。

飛行機で、席の前についているモニターに映る飛行経路のアニメーションを見ていて思った。いわゆる世界地図上の飛行経路のアニメと、飛行機が向かっていく前方方向のアニメとが交互に映るんだけど。
例えばタシケントに向かう際、北を上にした世界地図において、自分の乗ってる飛行機が西から東へ、つまり画面の右側から、目的地のある左側へと飛んでいくようなイメージを思い浮かべていた。
けど、実際は飛行機は、まだ見ぬ目的地に向かって、闇雲に前へ前へと飛んでいく。もし自分が操縦席にいたら、当然ながら目的地は遥か遠くにあって見えなくて、ただコンパスの指す方向に向かって飛んでいくんだよね。
ソウルからまず中国西方に向かい、北京を通りすぎて、だんだん砂漠が見えてきて、さらにテンシャン山脈の上を飛んで(これはちょっと見えた)、インドを左側にモンゴルを右側に見ながら、いつか雲の下にタシケントが見えるはず、って思いながら飛ぶわけだ。
それは勇気がいることだよね。
もちろん乗客からは片側しか見えないし、第一見えても雲の上だから今どこにいるかわからないし、そういうふうには感じられないけど。
飛行機ってほんとに何にも導かれないまま、勇気を出して飛んでいってるんだな~、って思ったらすごく不思議に思った。あたりまえのことだけど。
いつか行ってみたいと思ってるインドやバングラもあの視界の向こうにあって、通りすぎたんだよなー。

時差マイナス4時間だけどこの調子だと問題なく適応できそうです。。。

2011年5月10日火曜日

ぬれて行こう


このくらいの雨なら、傘はまあいいか・・。ハノイの春先特有の弱い雨が降ってた。
旧市街の路地の奥行き感が写ったかな。

小糠雨



他国在住の日本人がハノイを訪れて、「今でも本当に菅笠かぶって天秤棒かついでる人たちがいるんですねー」って感想を述べていた。確かに、そう言われてみれば、ビルが建ってもATMが林立しても菅笠・天秤棒は現役。特別なものではない。田舎からハノイ市内に商売に来る人達がこのスタイルであることが多いから、都会と田舎の格差の象徴という面もある。でも市内の人でも、菅笠は一家に1つぐらいある気がする。ちょっと日傘替わりとか小雨よけにとか、ハノイの気候には便利なものですよね。でもいつか、ハノイから菅笠や天秤棒がなくなる日が来るのかなあ。
これは旧市街Hang Giay通り周辺の四つ角で撮った。雨が降っててぬれるし暗いし、時間はなかったし、旧市街は建て込んでるので、50ミリでは街並みが視野に入りきらないため、28-70mmを付けてたので、なおさら暗くて苦労した・・。
ハノイのおばあさんは、とってもよい絵になる被写体です。

泣くのはがまん


これ、撮ったときの気持ちそのままの写真になって、うれしい。
ちょうど後ろから柔らかい夕日が当たって、光もよかった。

2011年4月19日火曜日

Ms. A

これお気に入り。いい顔してくれた。
カップラーメンが大好きみたいですね。

Mr.I


タバコがお似合い。

2011年4月18日月曜日

2011年4月10日日曜日

いちご

@Phnom Penh, 豚と肉のあいだ

市場にて。

かため・濃いめにしてうまくいった気がする。
まだプノンペン写真が終わらない・・・。

2011年2月17日木曜日

仕事で、外国人学生たちの面接に立ち会った。
面接官は法学の先生で、学生が自分の研究計画を説明したり、先生方が質問するというものだった。大学院学生なら、分野は違ってもおおむねこういう形式の面接や口頭試問を受ける機会はあるだろう。
この機会に、本当にいろいろな面で、つくづく、深く考えさせられた。書いてみる。

・対話の中で「わかる」「納得」「説得力がある」と感じるのはなぜか、どういう要因によるのか。
・対話のわかりやすさの評価に、流暢性、文法的複雑さ、語彙、音声的特徴などはどう関わるのか。

面接での対話を端で見ていて、「おっ、いいんじゃない」とよい評価をあげたくなるのは、話の内容が「わかる」と思ったときだ。「わかる」と思えば常に良い評価とは限らないかもしれないが、「わからない」のに良い評価を与えることはたぶんないんじゃないか。
面接のような場面で(というのはたぶん、対話する両者が対等な関係ではなく、一方が問うてもう一方が答えるという関係の対話の場合だろう)、「わからない」と思うのは、試験官の問うた問いに対して答えがかみ合っていないか、またはかみ合った答えなのかどうかも判別できない場合だ。
じゃあ、「わかる」と感じるのはいったいどういう時なのか。答えが面接官の期待通りである、または想定内の場合か。期待とは関係なく、問と答えが論理的に整合しているときか。答えとなる発話の主旨がはっきりしている場合か。
単なる「期待する答え」とは少し違って、試験官の話と同じフォーマットに沿って答えているかどうかというような観点もあるように感じた。でも話のフォーマットってどういうことだろう?適切な背景知識を持っているかどうかということ?
このこと、すごく気になっている。外国人の学生が、専門分野を外国語(日本語)で勉強して、専門分野の専門家である教員と話し合えるようになるために何が必要なのか、それに関係する、ような気がする。でもまだよくわからない・・・。

・人の能力の多面性
・人の能力の発達、成長、学習の可能性
・下位能力間の相関関係
・アカデミック能力はどの面をどういう比重で評価するべきか
学生たちをゼロから何年も教えたり、普段から接してきて、その学生の現時点での能力、能力の発達の過程、潜在的な能力がわかったような気がしている。
そして1回きりの試験を課して、筆記試験、面接のようすを見てとても理解に苦しむのは、これまで長い時間かけて確信した(気になっていた)彼らの総合的な能力、下位能力間のバランスのありかた、試験で客観的に見える形にでてきたもの、それぞれの乖離があまりにも大きく、一貫性がないことだ。
例えば、いわゆる日本語面で整った文を書く能力と、論理的構成を書いて表す能力と、いわゆる日本語面での話す能力と、論理的な議論を口頭でする能力、それぞれが全くばらばらだったりする。つまり日本語面では極めて整った文を書けるけれども、論理的構成を書いて表すことはできないとか、論理的構成を書いて表すことはできなくても、口頭での議論はできるとか、、、「いわゆる日本語能力と論理的思考は別」とか、「書く能力と話す能力は別」とかいうようであれば一貫性が見いだせるのだが、そういうものが見いだせない。
人の能力というものがこういうものだとして、試験でそのほんの一部だけをほんの一瞬かいま見ても、全体像が見える確率は本当にわずかなものだろう。
しかも、ある時点での能力が測れたとしても、その後その学生たちの能力のどこがどう伸びていくのかだって、わからない。長い期間のコースを見ていると、学生たちは本当に意外なときに伸びたり、止まったりすることを実感している。人の能力、そして評価っていうものは、本当に本当に複雑なものなんだと思った。
そうだとすれば、じゃあコースデザインはいったいどの能力にどう焦点を合わせていけばいいものなのか。評価においては、何に最も重きを置いて評価していけばいいのだろうか。

・コースデザインの見直し。
今回面接を含めた評価に立ちあってみて、学生たちに足りないこと、必要なことを改めて認識した。例えば論理的思考、具体的な事例や客観的なデータに基づいて論じること、具体的に述べること、論理を裏付けること。こういうことを、どう指導に組み込んでいけばいいんだろうか。


まだはっきり言葉にできないこともあるけど、書いてみるとちょっとは具体的になるね。
勉強が必要です。

2011年2月16日水曜日

@Phnom Penh 4枚目


真ん中の女の子が親分っぽくて魅力的。
写真が大きすぎるかなと思ったので小さくしてみましたが。

2011年2月15日火曜日

@Phnom Penh 3枚目

高校のある通りの家にちびっちゃい犬がいた。

2011年2月14日月曜日

Phnom Penh 2枚目


市場の中を通り抜ける通路で。高校生かな、登校中。
フィルタの意味がわかった。ちょっと硬め(コントラスト強め)にして、いい感じになった。でもフィルタ上げると同時に白っぽくなるから注意。

1年ぶりに行ったプノンペンでは、学生のファッションがずいぶん変わっててびっくりした。
カンボジアの大学は制服があるんだけど、肌を見せないようにする伝統から、女の子はこれまでは制服も白シャツにロングスカートで、素朴で奥ゆかしいのがカンボジア人ねと思っていた。
ところが先日のプノンペンでは、女子大生たちの多くが茶髪にメイク、制服のスカートさえミニではないか。これはまさにタイ人女子たちのファッション。カンボジアもタイになりたいのか。それにしてもこんな短時間で変わるものなのか。
この女の子もスカートはロングだけど、ちょっとしれっと都会風に見える。経済発展はこんなところから目に見えるようになるのかな。

2011年2月12日土曜日

2010年のベトナム語クラス総括

大学の学期終了時期です。後期のベトナム語クラスも試験をして修了した。
後期は「ベトナム人と友達になる」というテーマで、自己紹介や家族、趣味など、初めて会ったベトナム人とスモールトークができる要になるという目標ですすめた。発音はレベル2に進んで、連続する音節の声調の区別を勉強した。
後期で面白かったことの一つは、後期から入ってきた初学者の学生がよくできて、最後には前期から継続の学生と同じレベルで試験ができたことだ。ベトナムに興味を持っている学生たちで、動機がはっきりしていたこともあると思う。
もう一つ面白かったことは、声調は早い時期から勉強できるし、コミュニケーションにも役に立つということだ。後期に初学者の学生といっしょに発音レベル2に進んで、分節音の発音もそこそこの状態で、先に声調の特徴と区別を勉強してもらうことになったんだけど、分節音より先に声調の区別を扱っても学生はそれなりにわかるようになる。
分節音の発音を優先して教えていると、なかなかできるようにならないし、1音節の発音から次に進めないのでコミュニケーションにつながりにくい。一方、声調、特に連続する音節の声調パターンは、分節音より早くできるようになるし、意味のある発話と結びつけやすい。分節音が多少間違っていても声調パターンが合っていればベトナム人に通じやすい。今後も、声調を先に教える方針でいいよねと思った。

ちょっと話が違うけど、ある学部学生の話が印象に残った。
その学生は医療系の資格をとるコースで勉強していて、国際協力に興味を持っており、専門能力を生かして例えば協力隊とか・・・と考え始めたらしい。でも、周囲には同じような関心をもつ学生はいないらしく、むしろ、せっかくこれから(日本で)社会に出て手堅く仕事につけるのに、どうしてわざわざコースを外れていくの?という雰囲気で、周りからちょっと浮いてしまっているそうだ。(本人はごくふつうの若者でとてもよい子だ。)ふ~ん・・・と思った。今の日本の一般的な大学生たちは、そういう雰囲気なのかもしれないなあ。
国際協力分野に進めば必ず役に立てそうな資格だし、周りにどう思われるかなんて気にしないで好きな道に進んでほしいなー、と、思わず後押ししたくなる。その反面、国際協力分野は日本ではいまだマイノリティだし、一度踏み込むとふつうの日本社会に戻ってくるのはなかなか大変なことだということもよーく知っている。日本で手堅い仕事につくことの価値は、十分すぎるほどある。彼がどうするのか、ほんのり温かく見守ってみたい。

でも、これまでの経験によれば、海外行きたいとか口走っている人は、すぐではなくてもいつか、ほぼ必ず行っちゃうんだよな。それなら(まわりに迷惑かけにくい)若い時に行ったほうがいいと思う、というのが私の意見。

2011年2月7日月曜日

記念すべき1枚目

プノンペンの小学校の門の前で。

引き伸ばしの設定は先生がほとんど決めたけど・・・でも記念すべき1枚目。

2011年1月31日月曜日

写真教室

ものっすごい久しぶりの記事になってしまいました。2011年だし・・・。

ところで、新年からフィルム写真の教室に通い始めました。
前から写真には興味があったし、よく海外出張するし、以前、妹が美大で写真を勉強していて、自分で現像した写真を見せてもらったりしたこともあったので、自分で現像できたら楽しいそうだなー、写真の仕組みもわかりそうだし。と思っていた。
それでしばらく前に、白黒写真の現像を教えてくれる教室に体験レッスンに行ってみたことがあった。
それから半年以上経って、引越しもし、教室から近くなったからそろそろ通ってみるかな?と思ってネットで教室のウェブサイトを検索してみたら、移転していた。えーっどこ行っちゃったんだろう?と思ってよく見ると、移転先は今住んでいるうちのとなりのアパートの一室だった。
わお。隣。
一方、上司の一人にカメラ収集が趣味の方がいて、たまに学生などに使わないカメラを譲っていることを知っていたため、ダメもとで、習ってみようと思ってるのでもし使わないのがあったら貸していただけませんか・・と言ってみた。
するとある日、EOS7と、50mm+28mm~80mm+望遠のレンズ3本セット、外付けフラッシュのセットを「これを永久に貸してあげる」と差し出されてしまった。
わお。機材まで揃ってしまった。
という経緯で、こうなったらやるしかないでしょという状態が急激に訪れたのであった。

ちょうど出張の予定があったので、それまでの間に特急で、サバイバル的一眼知識としてISOの選び方と、絞りとシャッタースピードの調節の仕方だけ教えてもらい、さっそく実践ということになった。
先週のプノンペン出張の際、重いカメラと50mmと28-80mmと白黒フィルム2本だけ持って出かけた。朝ちょっと早起きして、宿の近くをカメラ持って歩きまわったりとかして(こういうことがしてみたかったんだよね!頭からっぽ、これだけでもう満足。)、あっというまに2本撮った。
フィルムの写真って、暗いと撮れないし、夜は手持ちフラッシュ無しじゃほとんど撮れないし、マニュアルならちょっとあわてたらブレブレだし、撮っても(次は現像を習ってからだから)写真を見られるのはいつのことやらわからないし、荷物チェックのX線で感光したらどうしてくれんの~と不安になるし、言うまでもないことだけど本当にあきれるほどアナログだ。実際、傑作を撮ってきたつもりでいるけど、現像してみたらほとんどブレブレかもしれない(同僚曰く「ブレンペン?」)。
しかしこのハラハラ感、プロセス感がたまんない、というのが写真ファンの気持ちだろう。私もすでにそんな気持でいっぱいだ。楽しい遊びだ。
いつも見てる写真家さんのブログも、絞りは?なんて考えたりして、見かたが変わった。

まだだいぶ先になりそうだけど、プリントできたらこのブログにも載せたいと思います(スキャンでね)。お楽しみに!