2011年12月6日火曜日

ベトナム語の音声習得の話(前置き)

私は研究上、「自分の母語にない音韻要素の習得」に関心がある。平たく言うと、例えば、日本人が中国語やベトナム語にあるけど日本語にはない「声調」を勉強するとか、または外国人が日本語の「長い音と短い音の区別」を勉強するとか、そういう場合のことだ。

例えば日本人が、英語のRとLの区別がなかなかできないとかよく言われるが、この場合は日本語に英語のRやLと同じ子音がないというだけで、子音というものそのものは日本語にも(どの言語にも)あるし、よく似た音は日本語にもある。つまり、単に同じカテゴリーに属する要素のバリエーションが異なるというだけである。だから、「ら行みたいな音だけど舌の形がちょっと違ってて・・」というように、母語の知識をある程度利用できる。

これに対して、日本人が声調を勉強するような場合、日本語には声調に当たるカテゴリーがない、か、またはないに等しい。声調というのは、だいたい、リズム単位1つ(中国語のリズム単位は音節)における声の高さの変動の軌跡のパターンによって語の意味を弁別するというシステムといえる。一方日本語では、1つのリズム単位(日本語のリズム単位は拍)の中での高さの変動によって意味を区別するということが基本的にない。だから、中国語の声調を身につけようとすると、母語の知識を活用することができなくて、全くゼロからはじめなければならない。日本人にとって、「あ」という音が、だんだん上がってっても、下がってても、それで語の意味が変わることはないので、その違いを意味と結びつけることができない。違う言葉に聞こえない。つまり、ゼロというよりはむしろ、マイナスからはじめなければならない。

こういうののことを、母語にない音韻要素の習得、と、ここでは仮に言っておくことにする(あまり正確ではないけど一応)。一般的に、こういうものの習得は大変だろう。大人には不利だ、できない、ともよく言われる。
それで、こういうものの習得は、一般的に、果たして一体、できるものなのか、できないのか。なんで難しいのか。できるとしたらどういう条件においてか、大人でもできるのか、その習得はどういう過程をたどるのか。そこに関心がある。
こういうことに興味を持つようになったのは、たぶん自分がベトナム語を勉強したときに習得の過程を経験して、それがなかなか不思議なものだったからだろうと思う。でもこれまでその過程についてあまり振り返ったことがなかったので、参考のために、一度覚えている限りここに書いてみようと思う。

というのは前置きでした。これからちょっとずつ書いてみます。