2011年2月17日木曜日

仕事で、外国人学生たちの面接に立ち会った。
面接官は法学の先生で、学生が自分の研究計画を説明したり、先生方が質問するというものだった。大学院学生なら、分野は違ってもおおむねこういう形式の面接や口頭試問を受ける機会はあるだろう。
この機会に、本当にいろいろな面で、つくづく、深く考えさせられた。書いてみる。

・対話の中で「わかる」「納得」「説得力がある」と感じるのはなぜか、どういう要因によるのか。
・対話のわかりやすさの評価に、流暢性、文法的複雑さ、語彙、音声的特徴などはどう関わるのか。

面接での対話を端で見ていて、「おっ、いいんじゃない」とよい評価をあげたくなるのは、話の内容が「わかる」と思ったときだ。「わかる」と思えば常に良い評価とは限らないかもしれないが、「わからない」のに良い評価を与えることはたぶんないんじゃないか。
面接のような場面で(というのはたぶん、対話する両者が対等な関係ではなく、一方が問うてもう一方が答えるという関係の対話の場合だろう)、「わからない」と思うのは、試験官の問うた問いに対して答えがかみ合っていないか、またはかみ合った答えなのかどうかも判別できない場合だ。
じゃあ、「わかる」と感じるのはいったいどういう時なのか。答えが面接官の期待通りである、または想定内の場合か。期待とは関係なく、問と答えが論理的に整合しているときか。答えとなる発話の主旨がはっきりしている場合か。
単なる「期待する答え」とは少し違って、試験官の話と同じフォーマットに沿って答えているかどうかというような観点もあるように感じた。でも話のフォーマットってどういうことだろう?適切な背景知識を持っているかどうかということ?
このこと、すごく気になっている。外国人の学生が、専門分野を外国語(日本語)で勉強して、専門分野の専門家である教員と話し合えるようになるために何が必要なのか、それに関係する、ような気がする。でもまだよくわからない・・・。

・人の能力の多面性
・人の能力の発達、成長、学習の可能性
・下位能力間の相関関係
・アカデミック能力はどの面をどういう比重で評価するべきか
学生たちをゼロから何年も教えたり、普段から接してきて、その学生の現時点での能力、能力の発達の過程、潜在的な能力がわかったような気がしている。
そして1回きりの試験を課して、筆記試験、面接のようすを見てとても理解に苦しむのは、これまで長い時間かけて確信した(気になっていた)彼らの総合的な能力、下位能力間のバランスのありかた、試験で客観的に見える形にでてきたもの、それぞれの乖離があまりにも大きく、一貫性がないことだ。
例えば、いわゆる日本語面で整った文を書く能力と、論理的構成を書いて表す能力と、いわゆる日本語面での話す能力と、論理的な議論を口頭でする能力、それぞれが全くばらばらだったりする。つまり日本語面では極めて整った文を書けるけれども、論理的構成を書いて表すことはできないとか、論理的構成を書いて表すことはできなくても、口頭での議論はできるとか、、、「いわゆる日本語能力と論理的思考は別」とか、「書く能力と話す能力は別」とかいうようであれば一貫性が見いだせるのだが、そういうものが見いだせない。
人の能力というものがこういうものだとして、試験でそのほんの一部だけをほんの一瞬かいま見ても、全体像が見える確率は本当にわずかなものだろう。
しかも、ある時点での能力が測れたとしても、その後その学生たちの能力のどこがどう伸びていくのかだって、わからない。長い期間のコースを見ていると、学生たちは本当に意外なときに伸びたり、止まったりすることを実感している。人の能力、そして評価っていうものは、本当に本当に複雑なものなんだと思った。
そうだとすれば、じゃあコースデザインはいったいどの能力にどう焦点を合わせていけばいいものなのか。評価においては、何に最も重きを置いて評価していけばいいのだろうか。

・コースデザインの見直し。
今回面接を含めた評価に立ちあってみて、学生たちに足りないこと、必要なことを改めて認識した。例えば論理的思考、具体的な事例や客観的なデータに基づいて論じること、具体的に述べること、論理を裏付けること。こういうことを、どう指導に組み込んでいけばいいんだろうか。


まだはっきり言葉にできないこともあるけど、書いてみるとちょっとは具体的になるね。
勉強が必要です。

2011年2月16日水曜日

@Phnom Penh 4枚目


真ん中の女の子が親分っぽくて魅力的。
写真が大きすぎるかなと思ったので小さくしてみましたが。

2011年2月15日火曜日

@Phnom Penh 3枚目

高校のある通りの家にちびっちゃい犬がいた。

2011年2月14日月曜日

Phnom Penh 2枚目


市場の中を通り抜ける通路で。高校生かな、登校中。
フィルタの意味がわかった。ちょっと硬め(コントラスト強め)にして、いい感じになった。でもフィルタ上げると同時に白っぽくなるから注意。

1年ぶりに行ったプノンペンでは、学生のファッションがずいぶん変わっててびっくりした。
カンボジアの大学は制服があるんだけど、肌を見せないようにする伝統から、女の子はこれまでは制服も白シャツにロングスカートで、素朴で奥ゆかしいのがカンボジア人ねと思っていた。
ところが先日のプノンペンでは、女子大生たちの多くが茶髪にメイク、制服のスカートさえミニではないか。これはまさにタイ人女子たちのファッション。カンボジアもタイになりたいのか。それにしてもこんな短時間で変わるものなのか。
この女の子もスカートはロングだけど、ちょっとしれっと都会風に見える。経済発展はこんなところから目に見えるようになるのかな。

2011年2月12日土曜日

2010年のベトナム語クラス総括

大学の学期終了時期です。後期のベトナム語クラスも試験をして修了した。
後期は「ベトナム人と友達になる」というテーマで、自己紹介や家族、趣味など、初めて会ったベトナム人とスモールトークができる要になるという目標ですすめた。発音はレベル2に進んで、連続する音節の声調の区別を勉強した。
後期で面白かったことの一つは、後期から入ってきた初学者の学生がよくできて、最後には前期から継続の学生と同じレベルで試験ができたことだ。ベトナムに興味を持っている学生たちで、動機がはっきりしていたこともあると思う。
もう一つ面白かったことは、声調は早い時期から勉強できるし、コミュニケーションにも役に立つということだ。後期に初学者の学生といっしょに発音レベル2に進んで、分節音の発音もそこそこの状態で、先に声調の特徴と区別を勉強してもらうことになったんだけど、分節音より先に声調の区別を扱っても学生はそれなりにわかるようになる。
分節音の発音を優先して教えていると、なかなかできるようにならないし、1音節の発音から次に進めないのでコミュニケーションにつながりにくい。一方、声調、特に連続する音節の声調パターンは、分節音より早くできるようになるし、意味のある発話と結びつけやすい。分節音が多少間違っていても声調パターンが合っていればベトナム人に通じやすい。今後も、声調を先に教える方針でいいよねと思った。

ちょっと話が違うけど、ある学部学生の話が印象に残った。
その学生は医療系の資格をとるコースで勉強していて、国際協力に興味を持っており、専門能力を生かして例えば協力隊とか・・・と考え始めたらしい。でも、周囲には同じような関心をもつ学生はいないらしく、むしろ、せっかくこれから(日本で)社会に出て手堅く仕事につけるのに、どうしてわざわざコースを外れていくの?という雰囲気で、周りからちょっと浮いてしまっているそうだ。(本人はごくふつうの若者でとてもよい子だ。)ふ~ん・・・と思った。今の日本の一般的な大学生たちは、そういう雰囲気なのかもしれないなあ。
国際協力分野に進めば必ず役に立てそうな資格だし、周りにどう思われるかなんて気にしないで好きな道に進んでほしいなー、と、思わず後押ししたくなる。その反面、国際協力分野は日本ではいまだマイノリティだし、一度踏み込むとふつうの日本社会に戻ってくるのはなかなか大変なことだということもよーく知っている。日本で手堅い仕事につくことの価値は、十分すぎるほどある。彼がどうするのか、ほんのり温かく見守ってみたい。

でも、これまでの経験によれば、海外行きたいとか口走っている人は、すぐではなくてもいつか、ほぼ必ず行っちゃうんだよな。それなら(まわりに迷惑かけにくい)若い時に行ったほうがいいと思う、というのが私の意見。

2011年2月7日月曜日

記念すべき1枚目

プノンペンの小学校の門の前で。

引き伸ばしの設定は先生がほとんど決めたけど・・・でも記念すべき1枚目。